AERA('15,8,10No.34「翁長vs佐藤対談」より抜粋)
佐藤
「・・朝日・・シンポジウム、知事は(辺野古埋立承認)承認取り消しを示唆されました。・・
翁長
「そうですね。あとはタイミングですね。・・迷いがあると考える人もいますが、結果が出れば分かります。・・国は突然何をする分からないので・・横目でにらみながら、即応態勢でやっていきます。」
佐藤
「訪米の手応えは、どこで最も感じましたか。・・」
翁長
「今回、日本大使館のメモが、自分の訪問先の全部に渡っていたと感じました。お会いした上院議員、下院議員がまったく同じ文書を読み上げ『辺野古が唯一の選択肢』から始まるのです。日本の中米大使は「アメリカの反応も同じだったでしょ」という話を私にしています。ケネディ駐日大使との会談のときも、予定の30分に近づいたので失礼しようとしたら、「ちょっと待って」と、慌ててその文書を読み上げられました。
佐藤
「今回の訪米についての情報開示を、外務省に請求するといいですよ。・・・」
翁長
「・・さっそく検討しましょう。」
佐藤
「知事が「日本は変わったなぁ」と感じた節目は、・・2013年1月27日の「東京要請行動」だったのでは・・。」
翁長
「確かに東京要請行動は、初めてオール沖縄ができた瞬間です。一緒に街を行進したのですが、・・・日の丸が何本もあがって、沖縄へのヘイトスピーチが行われた。・・スピーチに驚いたわけではありませんが、道を歩いている人々が誰も足を止めない。これはすこしおかしいぞと。ヘイトスピーチが大変問題のある内容を含んでいたので、10秒でも立ち止まってほしかったです。」
佐藤
「知事が中国の手先、スパイだという説の原型が、あの街頭で現れていた。」
翁長
「・・中国をあんなに意識するのは、日本という国が相当浮足立っている証拠ではないでしょうか。日米安全保障体制は盤石に見えますが、中国があれだけ大国になってくると、日本は米国に寄り添っていく。安倍政権は「日本を取り戻す」と言いつつ、米国の懐のなかで生き抜こうとしています。安倍政権は「日本を取り戻す」と言いつつ、米国の懐のなかで生き抜こうとしています。沖縄で「戦後レジーム」を死守しようとしている。その辺りが一瞬で読み取れるものを、あの日、感じました。」
佐藤
「いくら政府に沖縄の意思を伝えても、誠実には取り合わない。・・」
翁長
「・・沖縄側に立とうという人ですら、「米国訪問でもラチがあかない。日本政府も沖縄を相手にしない。どうするの」と私に聞いてこられます。日本の1%しか人口的にも政治的にも力を持たない沖縄が差別を打破しようとするとき、第三者が遠い目で「できもしないことをやるのか」と見ているとすれば、多数決の独裁政治のようなものを強く感じます。昔の沖縄は、保守対革新の中で、生活が大切だという人と、人間の尊厳が大切だという人に分かれていましたが、いま初めて両方が平和を求めて一緒に行動するようになりました。私は革新側に「イデオロギーじゃないぞ。これからはアイデンティティーだよと」と呼びかけました。「沖縄の存在そのものが日本を変えていく。革新も考え方はさまざまだろうが、私も保守から真ん中に寄ってきたのだから一緒にやろうや」と。自民党にも呼びかけましたが、「普天間代替施設の県外移設は絶対に譲らないよ」と言うと、「それはできない」と言われました。結局、小選挙区制の中で、組織から切られることが怖いのです。党に残っていると、党の論理に従わざるを得ない。自民党も公明党も苦渋のなかで自分の考えを押し殺し、決まったことを言うしかないのでしょう。
佐藤
「ただ、自民党と公明党との間にはニュアンスの違いがありますね。・・」
翁長
「・・昨年の知事選でも公明党は自主投票でした。基地問題ではご一緒していると思っています。沖縄の人々は、一人一人に大した力はないのに、みんなで押しかけ、大きな力とやり合う。辺野古の予定地でも、おじいちゃん、おばあちゃんが毎日100人ぐらい頑張っている。その動きはこれからも止まらないでしょう。10年かかる工事の間に、安倍政権は当然なくなっています。辺野古移設が頓挫するところで、日米安保体制は大変な危機に陥るでしょうね。」
佐藤
「ボタンを掛け違えたのなら、早いうちに軌道修正したほうがいい。辺野古には造れないし、できない。土砂を入れられても、取り除けばいい。安倍政権は沖縄の底力を軽く見ている。・・」
佐藤
「国会議員、官僚、マスコミの沖縄に対する姿勢は、最近変わりましたか。」
翁長
「ものを言わない沖縄だからこそ温かく見守っていた人たちが、私が口を開くことで態度を表明しないといけなくなりました。理解のある話をしてきた岡本行夫さんのような人も、せっぱつまってくると、向こう(政府)側に行っちゃう。マスコミや学者も支えようとする人と、厳しい言い方をする人が出てくる。日本という国の軽さが見えてきて、5年、10年先が思いやられる。危機感があります。
「歴史的に中国が沖縄に危害を加えたことは一度もありません。沖縄が苦しんだのは薩摩に併合されてからです。」
佐藤
「1952年のサンフランシスコ講和条約発効までは、本土も沖縄も平等に連合国軍の占領下にありました。しかし、それ以降、沖縄は日本の施政権の外に置かれ、米国に占領された状態で、ずっと宙ぶらりんでした。多くの人はそういう歴史を勉強しよううとしない。
翁長
「ゆすり、たかりの名人」と言われながらも、沖縄は県民全体で敗戦から本土復帰まで27年間、身を寄せ合いながら闘い、いじめを跳ね返してきました。今年5月17日の県民大会で、私が最後に話したのは「日本の独立が神話であると言われないようにしてください」ということ。アジア諸国から、日本と交渉するより米国と交渉したほうが早いと思われています。これでアジアのリーダーになれるのか。経済力でしか尊敬を集められない。大変さびしいアジアとの関係です。」
佐藤
「ロシア人にも似ているが、日本人は圧倒的な多数なので、少数派の沖縄人の気持ちを理解することが苦手なんですね。」
翁長
「私は本土と同時に、沖縄の若手に向けて話をしている。若い人は本を読まないので、10分、15分で歴史やアイデンティティーが理解できるように語りかけている。ここで踏ん張れば日本も変わるし、若者に私たちのDNAを引き継げる。辺野古に基地ができれば、海兵隊は20〜30年は居続ける。基地があると、過去の歴史が引きずり出されてしまう。辺野古移設を止めることが、沖縄にとっても日本にとっても大切です。止められれば、百ある不満が20まで減るでしょう。20まで減れば、日本国民全体のなかで、沖縄のあり方が変わってきます。
佐藤
「重要なのは独立ではなく、自己決定権の確立です。我々の運命は我々が決める。いまの時点では、沖縄は日本の一員であることを選択していますが、沖縄を犠牲にしてまで日本のために働けとなると、これは話が別。そういうことはできません。自己決定権の確立が独立という結論に至るかどうかは、ひとえに本土側の対応にかかっている。」
翁長
「道州制度がもう少し燃え上がって、沖縄が単独州になれれば、こう少し自己決定権が出てきますが、道州制度は残念ながら宙に浮いたままです。だから、県としては、抵抗して闘う方法をとらざるを得ない。辺野古に無理に基地を造ると、さらにワンランク上げた何かが出てきますよ。沖縄がなぜ独立しなかったのか、と言う人がよくいますが、歴史の経緯からいえば、できなかったと言ったほうがいい。本来は単独州になり、自己決定権が保たれ、ゆるやかな形でアジアの平和に貢献するように模索すべきだと考えています。
40年、50年後の話ですが、基地をなくして、ASEAN(東南アジア諸国連合)やアジア、国連の機構を沖縄に置き、平和の緩衝地帯になり、いろんな人々が沖縄を訪れる。そんな役割を担うことが沖縄にとっては大変いいのかなあ、という思いを持っています。」