1 検察官にとっての裁判員制度
2 弁護人(士)にとっての裁判員制度
3 裁判官にとっての裁判員制度
4 裁判員制度への批判について
例えば、家庭の問題を解決しようとする場合、おそらく多くの過程では家族会議を開いて、家族全員の意見を聞いて解決を図ることと思うが、そこで、突然、お父さんが、「今後の家族会議にはお隣の金城さんを加えて会議を開くことにする。」と宣言した。当然家族は大反対、なんで、内とは何の関係もない金城さんを加えるわけ? しかも、金城さんには評決権をも与えるという。そんな、ばかな。金城さんはうちのことは何も知らないのにどうするわけと聞くと、お父さんが説明するという。はぁ〜? ばっかじゃないの!となるに違いないのだ。こう考えると裁判員制度を導入することによって、裁判官が暇になる、裁判官が責任を免れることになるとは思えないのだ。裁判員からの質問に答えるだけでなく、当然に理解できる程度に答えなければならない。実は、裁判員となる国民が抱く以上に、裁判官も不安を抱えているのではないだろうか。
5 裁判員に選ばれたら
また、どうしても裁判員として加わることで不都合があれば、遠慮なく裁判所に申し出ることである。国民が負担に感ずることなく参加できる制度に変えていくことも、また、国民の責任である。そのためには裁判所に物を言うことをためらってはならない。
6 裁判員裁判対象事件について
裁判員制度は、国民の司法参加により、国民の司法への理解と信頼の向上を目的とするとされている。裁判員裁判の対象となる事件は「死刑又は無期の懲役もしくは禁錮にあたる罪にかかる事件」である。いわゆる重大事件である。具体的には殺人、傷害致死、放火等の事件がその対象となる。たしかに人命にかかわるような事件については人々の関心が高いのが常であり、審理対象となったと思われる。しかし、国民の司法参加をいうのであれば、国民の基本的人権に関わる事件もその対象とすべきではないだろうか。例えば、マンションへのビラ配布が住居侵入罪に問われている葛飾ビラ配布事件(現在最高裁で審理中)のような事件である。この事件のビラ配布の事実が国民生活の平穏を害するものなのか否か。法律の専門家による判断に加えて市民感覚を司法判断に反映させる方が国民主権国家の形成に資することになるのではないかと考える。 そして、もう一つ、被告人が裁判員裁判を希望する場合に採用することである。裁判員制度の導入にあたっては被告人の裁判をうける権利についてどんな議論があったのか明らかになっていない。被告人が国民による判断を希望するのであれば裁判員裁判を受けられるようにすることが制度の充実にもつながると考える。
裁判員制度の意義が、国民の司法への理解と信頼の向上から更に進んで、何を罰し、何を罰しないのかについても最終的には国民が決定するような国民主権国家の形成に資する制度になることを期待したい。