昨日の琉球新報のコラム「未来へ いっぽ にほ“気になる五百円玉”」を読んだ。大学を卒業し沖縄に帰ることになった大学生が、不要になった冷蔵庫・洗濯機等を処分しようしたが、古すぎてリサイクルショップも相手にしない。そこでホームレスのおじさんに声をかけたら、ちょうど自立支援施設への入居が決まったところだったのでぜひいただいきたいとの返事。ただ、運搬手段がないという。大学生は友人と二人でおじさんのアパートまで運んだ。運び終えた二人に缶コーヒーを手渡したおじさんは、少ないけどと言って500円玉1個をお礼に差し出したという。この500円玉がアルミ缶500個を集めて稼いだことを知っている2人は受け取らなかったが、おじさんがどうしても受け取って欲しいと言うので、2人はお礼を言って受け取った。「さすがにこの5百円玉は使えないよな」帰りに河川敷を歩きながらどちらともなくと言ったという。
500円玉1個に込められた思い。500円玉1個を得るためにどれだけの労力が費やされたか知っていたから、大学生と友人には、たった1個の500円玉が輝いて見えたに違いない。
ところ変わって息子の話。
テストの点数が上がった息子が、返してもらったテストを私に差し出した。
すごい、やればできるじゃない、と私が最大級の賛辞を送る。
そうだろ、ま、がんばればこんなもん・・息子も鼻高々である。
はい、私がテストを返す。
え、これだけ、と息子。
え、なにが?と私。
ご褒美とかないの、と息子。
どんな褒美? 私はあくまでもトボケタまま。
こんなのさ〜。と指で〇を作る。
いくら欲しいの?、と私。
え、と戸惑いながらも。千円、と息子。
千円でいいの?、と私。
色めきだつ息子。
じゃぁ、二千円、と息子。
二千円でいいの?、と私。
けちの私がこれ以上出すはずはないと、疑いを持ちながらも
五千円、と息子。
五千円でいいの、と私。
じゃぁ、一万円、と息子。
一万円でいいの、と私。
戸惑いながらも、もしかしたらと期待を込めたまなざしを向ける息子に、さらに続ける。
テストの成績が上がったのは、がんばった結果。でも、その頑張った結果をたった一万円って評価するの?一所懸命がんばった結果は自分自身の大切な財産にしないと。そんな、頑張った結果をただの金銭で価値をきめちゃいけない。お父さんはそう思う。でも、誰かが本当に頑張ったねって言って、おこずかいをくれるんだったら貰っていいと思うけど、自分はおこずかいを貰うためにやっているんじゃないと言えるくらいになって欲しい。かけがえのない自分自身の努力に自分から値段をつけることはやめなさい。
あぁ〜。期待がはずれた息子はわかったような、わからないような返事。
息子に言ったことは、こずかいをやらないための詭弁ではない。私は本気である。経営者と従業員との関係であれば、営業成績をあげるための方策として報奨制度を設けることは理解できるし、当然であろう。しかし、子供たちの努力や成果に安易に値段をつけることには疑問を持つ。現金だけでなく物で評価すること同じだ。先に引用したホームレスのおじさんの話のように、お金には代えられない価値があることを知ることは大切だし、さらに言えば、大人たちの務めは、子供たちをお金には代えられない価値に触れさせることだと思う。そのためには大人たちがお金には代えられない価値を知らなければならない。
私たちの身の回りにはお金には変えられない価値のあるもの、本当に大切なものがいくらでもあることに気づけば、大半の争いごとも解決するのではないかと楽観的な気持ちにもなるのだが。楽観的過ぎるだろうか。