もう三時間もまえのこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へひきよせるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが・・・。
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「あんたは寝なさい。さあ、寝なさいったら。」
「君はどうするんだ。」
「こうやってる。少し醒まして帰る。夜のあけないうちに帰る。」と、いざり寄って島村を引っ張った。
「私にかまわないで寝なさいってば。」
島村が寝床に入ると、女は机に胸を崩して水を飲んだが、
「起きなさい。ねえ、起きなさいったら。」
「どうしろって言うんだ。」
「やっぱり寝てなさい。」
「なにを言ってるんだ。」と、島村は立ち上がった。
女を引き摺って行った。
やがて、顔をあちらに反向(そむ)けこちらに隠していた女が、突然激しく唇を突き出した。
しかしそのあとでも、寧ろ苦痛を訴える譫言(うわごと)にように
「いけない。いけないの。お友達でいようって、あなたがおっしゃったんじゃないの。」と、幾度繰り返したかしれなかった。
島村はその真剣な響きに打たれ、額に皺立て顔をしかめて懸命に自分を抑えている意志の強さには、味気なく白けるほどで、女との約束を守ろうかとも思った。
「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃない。私はそういう女じゃないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの。」
酔いで半ば痺れていた。
「私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ。」などと口走りながら、よろこびにさからうためにそでをかんでいた。・・・
この物語を私が初めて読んだのは大学生になってからだ。入学して初めて古本屋なるものが存在し、市価の半値以下で本が手に入ることを知った私は本を買い漁った。その時手にしたのがこの本である。
川端康成作の雪国である
高校を卒業したばかりの私には冒頭の人差指の話など理解できなかったに違いないのだが、今年で50歳になるに至るまで、この人差指のくだりが妙に記憶に残っていたのは、青年期の性衝動いっぱいの私の記憶に刻みつけられたからに違いないのだ。