横浜事件は戦前の治安維持法に基づき編集者らが同法違反の罪に問われた逮捕・起訴された事件である。裁判でも有罪となり、編集者の何人かは獄中死した。横浜事件は当時の特高警察・検察のでっち上げ冤罪事件として度重なる再審請求の末に免訴が確定し、これを受けて刑事補償手続法による訴えが提起され、事件の裁判(決定)が今月出された。 その決定の中でもっとも注目されるのは検察の起訴を受けて裁判した裁判官の過失を認めている点である。報道された決定要旨によれば次のようになっている。
「拷問を見過ごしたまま公判に付した予審判事にも過失があり、慎重な審理をしなかった裁判官にも過失があった。」
刑事手続は捜査機関である警察・検察が捜査を尽くした後に、検察官が当該被疑者を起訴するか否かを判断する。起訴の判断は検察官の専権事項である。検察官が起訴して罰すべきであるとの判断が下された後に、裁判が行われる。戦前であれば、裁判の前に予審があって裁判に移行した。 横浜事件について言えば、捜査が尽くされた後に検察官が判断するわけであり、その判断について検察官の過失を認めることについては理解しやすい。
問題は裁判官である。裁判において、判断のもとになる資料は検察官と弁護人が提出した証拠だけである。法廷で証人尋問等の証拠調べをするにしてもその範囲は限られてくる。したがって、仮に判断が誤っていたとしても、その当時の裁判の状況の中ではその判断をしても仕方がなかったとされれば、過失があったとは言えない。そう判断したことがやむを得なかったとなれば過失とはいえなくなるのである。少なくともこれまでの常識はそうだったように思う。だから、私の知る限り裁判官の過失を認めた裁判など聞いたことがない。しかし、今回の判決はその裁判官の過失を認めたのである。
この決定に対する論評の中では、現在再審が進行中の足利事件にも影響を及ぼすのではないかと指摘するものもある。菅谷さんに対し、警察・検察は公に謝罪している。裁判所の対応が注目される。
憲法76条3項は裁判官の地位について次のように規定する。
「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職務を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」
今回の決定は、裁判官の「その良心に従い独立して」の部分への一般市民の期待が高まっていることを受け止めているが故の決定ではないだろうか。裁判を市民と同じ目線で行うことが求められている。裁判所への市民の期待は決して小さくない、と思う。