1946年(昭和21年)5月3日に日本国憲法が施行されてから64年が経過したが、この国には憲法の枠外に置かれ、今なお、憲法に規定される国民の権利等の枠外に置かれ続けている地域がある。沖縄である。
1952年(昭和27年)4月28日サンフランシスコ平和条約が発効する。敗戦国日本が、占領から主権を回復し、独立を果たした。その引き換えに沖縄・奄美諸島・小笠原諸島は米国統治下に置かれれることになった。
翌1953年(昭和28年)には奄美諸島が返還され、16年後の1968年(昭和43年)には奄美諸島が日本へ復帰する。そして、沖縄の本土復帰は米国統治から20年後の1972年(昭和47年)5月15日を待たなければならなかった。
沖縄は、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の3原則を掲げる日本国憲法が制定されながら、それから6年後には米国占領下におかれ、再び憲法下の国民としての地位を得るまでに20年の歳月を要したのである。
沖縄が祖国復帰運動で掲げたスローガンは「核抜き本土並み」であった。日本に復帰すれば、それまでの米国統治の圧政や基地負担から解放され、日本本土のような自由な生活ができると信じていた。
しかし現実はどうか。本土復帰から40年が歳月が過ぎようとしているのに、基地負担の状況は変わらない。復帰後いくつかの米軍基地が返還され、北谷町のハンビータウン、那覇市上之屋の新都心地区は商業の中心地となっており、本土復帰が沖縄の経済的自立を促したのは事実である。
しかし、嘉手納・普天間を中心とした米軍機の爆音等の被害は激化し、米軍人等の事件事故に対する対応も日米地位協定により米国優先となっている。沖縄国際大学ヘリ墜落事故においても、日本の事故捜査権は一切無視され、その後も無視され続けたままである。それどころか同墜落事故の事故処理状況が事故処理マニュアルとして日米間で定着されたという。もはや沖縄での米軍機墜落事故等においては日本官憲には沖縄の人々を守る手立てがないという状況になりかねない。
深夜でも自由に運航する米軍機の傍若無人な振る舞いや「公務中」であれば過失死亡事故であっても日本裁判権が及ばないという現状は、もはや植民地としか言いようがない。
その意味において、憲法の定める国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の3原則は沖縄には適用されていない、というしかない。
あらゆる手段を講じて、ウチナーンチュ(沖縄人)の権利を守る必要がある。日米地位協定改定の声、米軍族不起訴事件の検察審査会申立て、そして嘉手納・普天間の両爆音差止訴訟はその実践である。あきらめることなく、更に沖縄の声を発信するとともに、行動を提起していく必要がある。