昨日、8月9日、長崎市で開催された平和祈念式典。被爆者を代表して“平和への誓い”を行った松尾久夫氏の言葉には、心が震えた。
以下はその全文である。
原爆投下から、66年の歳月が流れました。被爆地長崎市内を見ても原爆の痕跡が少なくなりました。しかし、原爆の犠牲となった私の親族、友人、知人達(たち)の無念さを心にとめ、人々の記憶から消えてよいのかと思い、私の被爆体験が、彼らの生きていた証(あかし)となることを望みます。 昭和20年8月9日、私は17歳でした。当時は、爆心地から1200メートルほど離れた長崎兵器大橋工場に通っていました。その日の朝、いつものように母に「行って来る」といって家を出ると、「今夜は帰るのか」と大きな声がしました。振り返ると、母が笑顔で道に立っていました。その夜は、防空当番で泊まる日でしたので、「今夜は帰らん」と返事をすると、みるみる母が寂しそうな表情に変わったのです。これが母との最後の別れとなりました。この時の母の姿、声が、今でも瞼(まぶた)と耳に残り、決して消えることはありません。 工場に着き、昼近く、隣の人達と雑談をしていた時でした。突然、ピカッと閃光(せんこう)が走り、そして背後から「ウワッ」と、とてつもなく大きな音がしたのです。すぐに振り返ると、窓の外は真っ赤な火の海でした。数秒後に強烈な爆風に襲われ、息もできないほど地面に叩(たた)きつけられました。幸いにも怪我(けが)はしませんでしたが、障害物があまりにも多く、必死の思いで外にでました。すると、工場の屋根は吹き飛び、見渡す限り建物はすべてなぎ倒されていました。「これはどうしたことか」と、意味が分からずあぜんとしていました。私が真っ先に心配したのは母のことでした。ふと、母が、「畑に行く」と言ったのを思い出し、必死で畑へ走りました。しかし、そこに母はいませんでした。次に自宅を目指し、何とかたどり着くと、その手前で弟が倒れているのを見つけたのです。よく見ると頭に5センチほどの穴が開いていて、死亡していました。他の家族も心配で隣組の防空壕に探しにいくと、その中に姉を見つけました。しかし、名前を呼ぼうと肩に手をかけると姉は冷たくなって死亡していました。「弟に続いて、姉まで死んでしまったのか」と、初めて、悲しみがこみあげてきました。引き続き母を捜し、途中、大怪我をした女子挺身(ていしん)隊の人を隣町まで運んだりしましたが、やはり母を見つけることはできませんでした。後日、木材を集めて姉と弟の火葬を見守りながら涙の内に済ませて生前の思い出を胸にえがきながら、二人の白い遺骨を拾い集めました。結局、原爆で私の家族五人が亡くなりました。母ともう1人の弟や甥(おい)は遺体さえ見つかりませんでした。 戦争中とはいえ、核兵器の原爆を使用し、無残な悲劇が長崎を襲いました。無防備の、幾万の市民の尊い命を無差別に奪い去り、人道的に赦(ゆる)される行為ではありません。この悲劇が二度と繰り返すことのないよう、世界の国々の指導者に、被爆者代表として重ねて訴えます。又(また)、今もなお、後障害に苦しむ、被爆者の救済を要望致します。 現在、世界の国々では、民族間の対立や、他国による侵略等で、紛争が止(や)むことなく続いております。どこの国の人々も、平和の実現を望んでおります。ことしは福島原発の事故がおき、多くの人が放射能の恐怖にさらされています。私の残りの人生を核兵器と戦争のない世界の実現、また、放射能に脅かされない平和な世界の実現に尽くすことを約束して、私の「平和への誓い」といたします。 平成23年8月9日 被爆者代表 松尾久夫 |
依然として進まない核軍縮の途。核軍縮を唱えながらもくり返される核実験。戦後60年余を経たにもかかわらず、世界は一向に変わる気配を見せない。
松尾氏の“平和への誓い”から、私たちは何を学ぶべきなのか、の問いには誰もが同じ答えを持つのではないのか。それでも核開発を続け、抑止力と称して核兵器を持つべきだと言えるだろうか。
答えが決まれば後は行動するのみである。核兵器廃絶に向けて行動すること、動き出すことが何よりも大事なのだ。そう思った。