復帰40年。5月15日、沖縄が祖国復帰を果たして40年が経過した。当日は宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで盛大な記念式典が開催された。しかし、復帰40年が祝うべき記念日としての意義を有するのか極めて疑問だ。
この疑問は式典不参加の大田昌秀元知事のコメントに集約される。以下は5.16付琉球新報からの抜粋だ。
・・来賓予定者の中に、参加しなかった人も多くいた。その中の一人、大田昌秀元知事は「祝う状況ではない。問題は一向に解決されていない。復帰とは何だったのか。日本にとって沖縄とは何なのかということを考え直す必要がある」・・「・・生活は豊かになった。しかし、変わらない基地の過重負担に対し、県民は差別という言葉を使うようになった。」と話し、本土との心理的な溝の拡大を指摘した。・・ |
式典のあいさつの中で群を抜いたのは上原康助氏(元沖縄開発庁長官)だ。以下は5.16付琉球新報掲載の同氏あいさつ要旨からの抜粋だ。
厳粛な式典にはふさわしくないあいさつかもしれないが、ご容赦ねがいたい。沖縄が余儀なくされてきた苦難の歴史の最たるものは悲惨な沖縄戦だった。沖縄は70年前の戦時中から本土防衛のとりでにされ、捨石扱いで、常に苦難と犠牲を強いられてきた。67年前の沖縄戦で・・県土は焦土と化し、20万人余の尊い命を失った。 沖縄は日本から分断され米国の軍事占領下に置かれ、27年の長期にわたって米軍の占領下で呻吟させられてきた。・・ 国会で私が絶対に忘れず屈辱的だったのは、71年11月17日午後、まだ審議半ばの沖縄返還協定を自民党が抜き打ち的に強行採決したことだった。しかも、屋良主席が復帰に関わる重要事項をまとめた「建議書」・・を提示するため上京され、羽田空港に着いた時刻だった。・・ 県民が求め続けてきた「核抜き本土並み、平和憲法下」への復帰どころか、米軍基地に関わる密約や基地の自由使用をアメリカに担保したものでしかないことが明らかに・・。 最後に野田総理、駐日米大使、両閣下に強く申し上げたい。民主主義社会は世論を尊重することが基本だ。なぜ、両政府とも沖縄県民の切実な声をもっと尊重しないのか。米軍普天間飛行場の移設計画が日米間で合意されてから16年余が経過した。10年余経っても実現できないことは、最初から無理があったことを実証している。周知の通り普天間移設計画はますます混迷を来している。今や沖縄県民の立場は、普天間飛行場の県内移設はノーだと、ますます強く大きな広がりを見せている。 ・・この沖縄にこれ以上、新しい米軍基地を陸にも海にも造ることはおやめください。世界一危険(な)・・普天間飛行場を一日も早く県外移設することだ。にもかかわらず、欠陥機と言われているMV22オスプレイを7月にも普天間飛行場に配備すると報道されている。あまりの沖縄蔑視であり、到底容認できるものではない。 今こそ日米両政府とも「政治、外交、安全保障」などに対する旧態依然の思考から脱却するため、「真剣かつ英断」をもって発想を大転換して、沖縄の米軍基地の過重負担軽減を断行すべきだ。復帰40周年がその一大転機になることを心底から願っている。 |
同氏のあいさつに関して同紙記事には次のように記載されている。
首相や知事らによるあいさつが続き、淡々と式典が進む中、・・上原康助さんのあいさつで会場の空気が一変した。・・県外移設を無視し続ける政府への悔しさがあふれ出すかのように、・・一気に読み上げた。あいさつが終わると、水を打ったように静けさが広がっていた会場に、ひときわ大きな拍手が鳴り響いた。・・ |
沖縄の民意を述べた上原氏のあいさつが式典参加者の心を打った瞬間だったに違いない。
これで終わらせてはならない。本土大手を含めた多くのマスコミが、沖縄の本土復帰40年を報道した。
物言わぬ民が、自ら滅んでいくような、愚かな途を歩まぬように、
沖縄は更に、沖縄の声を挙げ続けなければならない。