辺野古基地建設反対を巡る過去の歴史に学ぶ〜比嘉前名護市長の辺野古受入後の辞任〜
比嘉前名護市長の新基地建設受入れにより混迷を深めてきた普天間飛行場の辺野古移設問題。その当時の経緯を振り返ってみると極めて奇妙だ。その経緯を過去の琉球新報記事を参考に振り返ってみたい。
比嘉前市長が受け入れを表明したのは1997(平成9)年12月24日だ。その前後の出来事を追ってみた。
1996(平成8)年7月11日:ヘリ基地絶対反対名護市民大会開催。普天間飛行場の辺野古移設案を受けて、名護市民が結束して反対ののろしをあげた。
「ヘリポート基地断固反対」名護市で市民総決起大会(琉球新報)〜・・大会で、実行委員長の比嘉鉄也名護市長は「嘉手納弾薬庫への移設を断念したのは喜ばしいが、たらい回しでキャンプ・シュワブに移設することには怒り心頭に発する。降り懸かってくる火の粉を市民が力を合わせて払いのけるとともに、市長としても基地機能強化は絶対まかりならんと先頭に立って行動することを誓いたい」と市民総ぐるみで闘う決意を見せた。・・〜
1996(平成8)年11月29日:名護市域へのヘリポート建設反対市民総決起大会開催。7月に続く市民総決起大会だ。反対の市民感情が高かったことを示す。
ヘリポート移設、断固反対を決議 名護市民総決起大会(同)〜・・大会で実行委員長の比嘉鉄也市長は「基地の整理縮小、沖縄の開発振興計画を推進する重要な時期に、静観の立場とも取れる県の対応に大きな疑問を抱いている」「基地機能の強化拡大につながるヘリポート建設には断固反対する」とあいさつ。 続いて高校生代表の幸地尚子さん(名護高2年)、青年代表の岸本誠さん(市青年団やんばる船)が「わずかな経済的効果と引き換えに豊かな自然を失うことがあってはならない」「ヘリポート建設による環境、生活の破壊は計りしれない」と述べ、ヘリポート建設に強い反対意思を表明した。・・〜
ところが、その後は市民の意思とは反対方向に事態が動いていく。1997(平成9)年4月18日比嘉名護市長が基地建設の事前調査受け入れを表明したのだ。
名護市長、きょう受け入れ表明へ 海上基地事前調査(同)〜普天間代替海上基地問題で比嘉鉄也名護市長は、18日午後にも事前調査の受け入れを正式表明する。・・〜
その後も市民の反対運動は収まらず名護市民投票が実施された。
1997(平成9)年12月21日:名護市民投票実施。辺野古への基地建設の是非を問う住民投票だ。選択肢は四つ。反対・条件付き反対、条件付き賛成・賛成。結果は反対・条件付き反対が上回り、基地建設反対の市民の意思が示された。
名護市の判断を重視(同)〜・・大田昌秀知事は二十一日午後十一時半、県庁で記者会見し「今回の住民投票の結果を重く受け止め、名護市の意向なども勘案し、県の総合的発展を図る観点から適切かつ慎重に対応していきたい」とコメントを発表・・〜
ところが事件が起こる。市民投票からわずか3日後。比嘉前名護市長は辺野古基地建設を、名護市として受け入れると発表したのだ。しかも、受入表明と引き換えに自ら辞任したのだ。
1997(平成9)年12月24日:比嘉名護市長。辺野古受入表明、辞任。
海上基地受け入れ(同)〜比嘉鉄也名護市長は24日夜、首相官邸で橋本竜太郎首相と会談し、名護市キャンプ・シュワブ沖への普天間代替海上基地の建設を容認する意向を表明した。比嘉市長は首相との会談後「ヘリポートを受け入れると同時に、私のこれまでの政治生命を終わらせていただく」と辞任の意向も表明。今後は大田知事の判断が最大の焦点となる。・・〜
市民投票を示された市民の意思を無視して受入を表明し、自らの政治生命を絶つような愚行を二度と起こしてはならない。